「グアムの魅力は島が珊瑚礁に囲まれていることだ。これが外海の波を、ちょうど波消しブロックのように防ぐので、それより内海は遠浅だし、波はしずかなことだ。これにみんな魅せられて、ダイビングやカヤック遊びに出かけるのだな」と散歩に出かける前にのっけから男あるじは話し出した。 男あるじは、自分が経験して生きたことを誰かに聞いてもらいたくて仕方がないようだ。女あるじも娘あるじも、男あるじの旅行談にはとんと興味を示さないので、吾輩相手にしゃべるようだ。吾輩も、これも当てがい扶持のお役目の一つと心得、お座りをして拝聴することにしている。
「今の若い者は、グアムと言えばリゾート地と捉えているが、太平洋戦争中はここで激戦が行われた。ここは、アメリカの統治下にあったが、1941年に日本軍がアメリカから奪ったが、19446月に空爆と艦砲射撃ではじまった上陸作戦でアメリカ軍に再奪還されたところだ。上陸地点は、ホテルのあるタモン湾からそんなに遠くないところで、島の中央部だったという。ここの砂浜は両軍将兵の多くの血をすっただろう。守備する日本軍は2万人弱、攻撃するアメリカ軍は55千人で、8月には決着が付いたという。ほぼ日本軍は玉砕であった」と男あるじは語り出した。
 吾輩は、遠い昔の戦争に思いを馳せようとしたが、戦争そのものを知らないので、ただ聞くだけであった。今はリゾート地のグアムで激戦が行われたことを、日本の観光客はどのくらい知っているのだろうかと男あるじに訊くと、
「ほとんど知らないだろうな。ひょとすると太平洋戦争自体も知らないかもな。まあ、それだけ平和な島になったということだ。でも、ここには戦争博物館があったぞ。そこには、当時の装甲車が展示されていたし、日本軍の潜航艇の残骸もあった。日本軍とアメリカ軍の将兵の写真も展示されていた。痛ましい限りだな」とつぶやいた。そして、
「ここを訪れる日本人は少ないようだ。一応、グアム島周遊コースに組み入れられているのだが、戦跡をみるよりレジャーが優先されてしまっているのだよ。ここはマリアナ諸島に属する。近くにはサイパン島がある。サイパンも激戦地で、日本軍はサイパンを奪われたことで本土空襲を許すことになった。サイパンが陥落し、グアムも落ちたことで日本の敗北は決定的になったそうだ。戦死者2万人あまり、生き残ったのは1300人ちょとだった。米軍の死者3千人あまりという。」と話し終えた。
 グアムといえば、ハワイと同様に、観光地としていまは知られている。しかし、70年ほど以前には、戦争の争奪地だったなんて思いもしなかったな。戦争なんか無ければ、子やマンゴー、パパイヤの豊かな楽園なのだろうに。
「その通りだ。ここはまさに南の島の楽園だ。気候もちょうど良いし、海は透明で魚介類も豊富だ。あの横井伍長が28年もの穴居生活ができたのも、本人の知恵と才覚、頑健な身体、不屈の闘志とそれになんといっても地味が豊だったからだ」とつぶやいたようだ。
 吾輩には小さな声だったのでよくは聞き取れなかったが、遠い戦場で戦没した人に思いをはせたようだ。戦死した人はほんとうに無念だったろう。無理も無かろう、男あるじも生まれはこの激戦のあった年だからだ。
 吾輩のこの思いを察知した男あるじは、
「兵隊の死ぬるや あわれ 遠い他国で ひょんと死ぬるや だまって だれもいないところで ひょんと死ぬるや ふるさとの風や こいびとの眼や ひょんと消ゆるや 国のため 大君のため 死んでしまうや その心や」と吟じた。
「戦死した詩人の竹内 浩三はの詩だ。フィリッピンで戦死した。無念だったろうに」とつぶやいた。

「楽園の丘に聳えし慰霊塔」 敬鬼

徒然随想

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